基町ポップラ物語

官民協働のポップラ植え直し大作戦

このレポートは、中国新聞(2005年9月8日~17日付)エッセイ欄「緑地帯」 に寄稿した『基町ポップラ物語』をもとに補筆したものです。官民協働によってポップラを植え戻した経緯を記録としてまとめました。

水辺は広島の誇り (9/8付)

「ポップラ」の誕生 (9/9付)

9・7倒木 (9/10付)

9・8救援メール (9/13付)

9・8有志の会議 (9/14付)

9・9応急手当て (9/15付)

再生へ一歩 (9/16付)

市民がつむぐ (9/17付)

番外編 ◆切り株ベンチ、世代交代

番外編 ◆なぜポップラは倒れたか

水辺は広島の誇り

「ポップラ、倒れたよ」。ちょうど1年前(2004年)、9月7日午後3時前のこの電話から『基町ポップラ物語』が始まった。 
広島市中区、中央公園西側の河岸緑地にすっくと立つ1本のポプラの木が、台風18号の強風を受け、根っこから倒れた。それから3日後の10日に同じ場所に植え直され、この春、待望の新芽をつけた。いま、カサカサと子どもの手のひらくらいの葉が風と遊んでいる。元の立派な姿からは程遠いが、多くの人の助けを得て再生に向かうポプラの物語を紹介したい。 
この河岸緑地は、デザインが全国から注目される「基町環境護岸」。樹高約26メートルのポプラが水辺の端に真っすぐ立ち、印象的な風景をつくっていた。 
外から見るとよく分かるが、広島は「川の中に街がある」。川は広島の恵み、街の誇りだ。都心でありながら自然あふれる水辺でピクニックをしたいと思ったとき、場所を示す名前がないと気づいた。そこでまず、車の進入しない川沿いの道「川通り」に愛称をつけることから始めた。人々の意識を水辺に向けようと思ったのだ。 
わたしたちのグループは通称CAQ(セアック)といい、主に水辺で憩い楽しむ活動をしている。 
2003年秋、「川通りの命名プロジェクト」と称して、市民公募により広島市内3カ所の「川通り」に名前をつけた。本川(三篠橋-空鞘橋・左岸)には「基町POP'La通り」という愛称を授かった。名づけ親は当時大学4年生の男性。「POP'La」は「ポップラ」と読み、シンボルツリーのポプラと音楽のPOPSを合わせ、ランララと弾むイメージを表現したものだ。

伝統的な治水技術「水制工」(本川・左岸)

「ポップラ」の誕生

「基町POP’La通り」のポプラの木「ポップラ」は、水辺のシンボルと言われるが生い立ちははっきりしない。被爆はしていないようだ。誰が、いつ、植えたのか? 命名をきっかけに、来歴を調べた。 
1949年、住民投票で「広島平和記念都市建設法」が制定され、戦災復興が軌道に乗り始める。 
この法律に基づき公園や河岸緑地の整備が進んだ。1957年、広島市が呼び掛けた「供木運動」に広島県内から惜しみない協力が寄せられ、これを契機に市民の自発的な植樹運動が起こった。街の緑化が進む中で、ポプラも成長の早い樹種として多く植えられた。 
「1953年から1960年の間、基町の公営住宅地区に毎年約2,000本程度の苗木を配布した」という資料が見つかった。 
戦後、河岸に建てられたバラックの住人が移転した(基町再開発事業)後、1979年に一帯を「基町環境護岸」という名称で整備する工事が始まった。土手の中ほどに双子のように仲良く2本のポプラが並んでいた。多くの樹木が護岸整備のためやむなく伐採される中、かろうじて1本のポプラが残された。 
このポプラは周辺のビルと競うように大きく成長し、「水の都ひろしま」を代表する風景をつくった。 
誰かが植えたポプラの木は、数奇な生涯をたどりながら、基町の空から広島の復興を見てきた。 
基町環境護岸は完成から20年を経て、2003年度の土木学会デザイン賞特別賞を受賞した。設計を担当した北村眞一山梨大学大学院教授は「ポプラを残すために工夫したデザインだ」と振り返る。 
そんなとき、ポップラが台風で倒れた。

資料提供/北村眞一氏(1979年の基町)

9・7倒木

昨年(2004年)、9月7日午後、台風18号が広島を通過していた。息を殺し、国土交通省・中国地方整備局・太田川河川事務所の河川カメラ・ウェブサイト「太田川ライブカメラ」を見つめた。体を大きく揺り動かし、けなげに耐えるポップラ。見ていられない。幾度も画面が消えた。 
午後2時52分、CAQ(セアック)メンバーで、対岸のビルに損害保険事務所を持つ三原進さんから電話が入った。「ポップラ、倒れたよ」。なんて嫌な冗談! え? まさか! パソコンを確認した。ポップラが横たわっている。 
暴風が収まるのを待ち、午後4時半に現場に着いた。頭を川上にし、ポップラが根っこからひっくり返っていた。そばでカラスがキョトンとしていた。大木の割にこんなに根が浅かったなんて…。目頭が熱くなった。 
知らせを聞いて駆けつけた都市計画家の松波龍一さんに「なんとかしたい!」と懇願すると、樹木医のHさんに連絡してくれた。 
Hさんは丁寧にポップラを診た後、「可能性はある」と言い、根に菰(こも)を巻くよう指示した。ホームセンターでありったけの菰とひもを買った。 
午後9時、まちづくり仲間のTさんと河川管理者の太田川河川事務所を訪ね、「根巻(ねまき)作業」の許可をいただいた。近所の高校生3人を含む7人が、水分の蒸散を防ぐために、むき出しの根を菰でグルグルと覆い、バケツリレーで水をかけた。 
応援を頼んでいた造園家の正本大さんが到着。診断の結果は樹木医のHさんと同じだった。正本さんが「翌朝、基町ポプラについての提案を河川事務所に提出する」と約束してくれた。 
いつのまにか日付が変わっていた。メンバーや仲間とともに河川事務所のDさんに根巻作業の報告をした。

2004年9月7日 なぎ倒されたポップラ

9・8救援メール

根巻作業を終えた9月7日深夜、太田川河川事務所は「最終決定ではないが、ポップラの再生は、台風シーズンであることを考えるとすぐには難しい。ただ単純に処理せず、ベンチなどの再生の道を考える」という方向にあった。 
翌8日朝、実情を訴えるメールを発信した。「ポップラの今後の行方は3つ。(1)残る根に合った樹高にし、再び植え戻す。(2)根株を生かし、ほかの土地に植える。生存率は高い。(3)次世代の育成に力を注ぐ。ポップラをモニュメントなどで生かす」 
そして、「このまま、いま、すぐに見送ることはできない。わたしはつながっている根に可能性を託し、もう一度、同じ水辺に植えたい! 倒木ポップラへの意見や思いのすべてを河川事務所に届ける。声を寄せて欲しい」。 
救援のメールはまちづくり仲間を経由し方々に転送されていった。 
わたしのパソコンに、「心中察します」「残念」「再生を願う」や、延命の賛否、復元募金の呼び掛けなどが届き始めた。 
ポップラの周りには心配する市民や縁ある人々が集まり、口々に胸中を語り、再生の方法を探った。涙を流す人もいた。 
行政も動いた。広島市が河川事務所へポップラの再生を要請。河川事務所は中国地方整備局に再生を目指す方針を説明した。 
「命」相手に時間がない。応急手当て第2弾は枝打ちだ。「市民の手で行いたい」と河川事務所に申し出て、許可をいただいた。気の済むまでやらせてもらえるのだろうか。 
この日、同様に台風で倒れた平和記念公園の被爆アオギリが、植え直された。 
「作戦会議をしよう」、有志の仲間が集まった。

台風通過直後、菰を巻かれたポップラ

9・8有志の会議

倒れたポップラのため、わたしたちは何をすべきか。対岸の事務所に、CAQ(セアック)メンバーと有志、11人が集まった。 
8日までの経過と、「ポップラを生かすのであれば11日までに起こす」といった専門家の意見、太田川河川事務所の見解が報告された。 
地元建設業の若手経営者がつくる広島建設青年交流会から「管理者の許可をいただけたら、費用もすべて負担しポップラを起こす作業をしたい」という申し出があったことを聞き、勇気づけられた。 
その後の意見交換は白熱した。 
「安全な場所で余生を送らせたい」「後継者を育成し同じ場所に植える」「再生するにしても切り株のような姿は賛成できない」「ポプラは倒れやすく、水辺には適さない」「あの場所にふさわしい樹種を考えるべきだ」―。 
同じ場所で再生させるという意見は少数派だった。 
「市民の自発的な行動であっても、河川管理者に判断を任せるべきだ」「もし管理者がしないのなら、市民の手でやり遂げる気概を持ち、管理者に伝える」―。 
一人一人、覚悟を問われた。 
意見が出尽くしたころ、まちづくり活動が豊富な山﨑学さんが切り出した。「キーワードは救援メールにあった『いま見送るのは忍びない』という言葉だ。管理者の許可が出れば、応急手当てとしてまず枝打ち、そして同じ場所に起こすところまで自分たちでやろう」 
異論はなく、深夜零時すぎ、この方針を河川事務所にファックスした。

資料提供/太田川河川事務所(1978年の基町)

9・9応急手当て

9月9日9時すぎ。造園家の正本大さんの指揮で、市民によるポップラ応急手当て第2弾が始まった。   
森林ボランティアグループの「もりメイト倶楽部Hiroshima」をはじめ、「里山あーと村」など市民団体やまちづくり仲間、市民の有志ら総勢30人が、重症のポップラを取り囲んだ。枯死させたくない。チェーンソーの準備が整った。 
太田川河川事務所職員も現地を訪れ、協議をしていた。午前10時、河川事務所から説明があった。「倒壊したポップラの屹立(きつりつ)とベビーポップラ(ポップラのひこばえのこと)の育成の2本立て方針でいく」 
この決定を受けて、市民有志がポップラの枝葉の刈り込みと伐採した幹や枝の整理を行い、屹立作業は翌日、河川事務所の維持工事で実施することとなった。 
応急手当ての中で注目されたのは、樹高の問題だった。ポップラはシルエットに人気があったからだ。残る根で再生させるために「11メートルまで切り詰める」と決まった。 
植え直し作業に向けて、根元に生えていたベビーポップラを移動させ、後継として育てることとなった。55株のベビーポップラをCAQ(セアック)が引き取った。ラジオ局の協力を得て、その日の午後には「ベビーポップラの里親募集」が放送された。 
翌10日午前11時半、切れずに土中でつながっている北側の根に希望を託し、ポップラはクレーンでゆっくりと引っ張られた。倒れてから3日後、支柱を伴って再び同じ水辺に立ち上がった。 
変わり果てた姿…。まるで門松が立っているようだ。「これでよかったのだろうか」、多くの人がそう感じたことだろう。

2004年9月10日 官民協働のポップラ植え直し大作戦

再び立ち上がるポップラ

再生へ一歩

昨年(2004年)は10個の台風が日本に上陸した。最大瞬間風速60.2メートルでポップラをなぎ倒した18号の後、23号も各地に大きな被害をもたらしたが、接近前に頑丈な支柱に取り換えられていたので、ポップラは無事だった。これは河川を管理する太田川河川事務所己斐出張所の英断だった。 
こうして植え直した後も人々の思いは重なった。根づく可能性は五分五分。ポップラに春は訪れるのだろうか。 
造園家の正本大さんは、定期的に状態を診てくれた。すっかり「ポップラの母」になっていたわたしは、不安になれば正本さんに尋ねた。「大丈夫」。いつも励まされた。 
年が明けて春、芽吹きの季節がやってきた。4月8日、お花見の日。新芽を確認した。「ポップラが芽吹きました!」と報告すると、拍手がわき起こった。第一段階をクリアした。 
若葉が生い茂り始めた。しかし川側の幹は一枚も葉をつけない。「長年の塩害などの影響で枯れている側はいずれ朽ちるだろう。病菌が生きている幹の方に移らないうちに、切り離す必要がある」 
7月7日、手術が行われた。現場指揮は正本さんだ。 
3つの主幹のうち、西側の幹を切断した。6時間にも及んだ。ポップラは悲鳴を上げた。倒木前は樹高約26メートル、幹周り約4.5メートルだったが、現在は約11メートル、約3メートル。スリムになったものだ。ポップラの北に居るクスノキの方が立派だ。1年前までは逆だった。 
ポップラに助かって欲しいという単純な願いはいま、以前の姿に近づいて、景観づくりという「仕事」をまた始めてほしいという思いに変わっていった。

2005年7月7日 川の日にポップラ大手術

市民がつむぐ

たくさんの人がつながり、ポップラの再生を望む市民の熱意に応える形で、管理者が復旧作業をした。枝打ちを手伝った知人は「参加できて光栄だ」と言った。ポップラの回復は順調だ。 
ベビーポップラは、その後、東広島市の社会福祉施設、広島市内の小中学校、公園施設や佐伯区湯来町の里山、個人の里親さんの元ですくすくと生長している。伐採した幹や枝を使って、来年3月に作品展示「丸太ポップラで思い出づくり」(企画展「ひろしまの水辺100年展」の1コーナー)を、中区の旧日本銀行広島支店で開催する。 
倒木から1年。新しい枝には若葉が茂っているが、いまのポップラは確かにカッコ悪い。景観的にはボリュームと高さが不足した落第生だろう。けれど、格好よりも、愛着を感じていたポップラを放っておけなかった。 
基町環境護岸の設計者、中村良夫東京工業大学名誉教授は「景観デザインは連句の発句、命名はとてもいい付け句だ」と言われる。市民が活用してこそデザインは生きると言われるのだ。中村先生の残したあのポプラを「ポップラ」と名づけたことも、市民によるデザインのひとつだ。 
時を経て人の思いが重なり、基町環境護岸とポップラは、すでに単なる景観から風景となった。その土地の歴史の上に物語をつむぎ続けることが、本当の風景デザインではないだろうか。 
いまは、命をつなごうと闘っているポップラを応援してほしい。戦後、焼け野原に現れ、人々の暮らしを静かに見守り続けてきた木なのだから。 
何年後か、新生ポップラの「姿」が定まったとき、あらためて景観と風景について議論してみたい。


「基町ポップラ物語」はまだ続いている。

  ― 隆杉純子(ポップラの再生を願う市民グループ「CAQ」) ―

2006年3月 丸太ポップラ作品展、大作の母子ハト

番外編 ◆ポップラのその後… 切り株ベンチ、世代交代

2008年11月1日(土)、基町ポップラ通りのシンボルツリー「ポップラ」とお別れしました。
戦後から半世紀以上、風雪に耐えたポップラでしたが、今度は切り株ベンチ(円周3m)に姿を変え、かたわらのヤングポップラを見守りました。先代ポップラとして。
その2年4カ月後の2011年2月26日、切り株の腐敗が進み、とうとう土にかえりました。名実ともにヤングポップラの1本立ちです。
「ポップラストーリー」はこれからも続きます。

初代ポップラの後を継いだ子どもたちのお話は、こちらをご覧ください。
・短いながらも大役を務めたポップラ2世
・里帰りの3代目ポップラ

番外編 ◆なぜポップラは倒れたか

「広島で観測史上最も強い台風は2004年9月7日の台風18号で、最大瞬間風速は60.2m/s(毎秒)でした。それは初代ポップラが倒れた台風です。
60.2m/sは新幹線のぞみの時速に匹敵するそうです。【2023年11月現在】

中国新聞夕刊(2005年3月15日付)「でるた」より転載
「広島市中区、基町POP'La通りのポプラの木、愛称・ポップラが昨年(2004年)9月7日の台風18号の強風を受け倒れた。そばでカラスがキョトンとしていた。・・・」
つづきは「こちら」をご覧ください。



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