ポップラの履歴書

基町のポプラの木 “ポップラ”の「誕生・倒木・再生・命のバトンタッチ」

1945年  原爆投下、終戦
1949年  「広島平和記念都市建設法」制定
1957年  供木運動(市民の自発的な緑化運動も起こる)
1945年~1960年  基町地区民間住宅の急増
1967年7月27日    基町大火災
1968年~1978年  基町再開発事業

♪1972年撮影「ポップラを確認できる最も古い写真」
 (太田川河川事務所・保管資料)

1979年11月  基町環境護岸工事着手
1980年  護岸工事で樹木の伐採

♪護岸工事にともない河岸の多くの樹木がやむなく切られる中、同じ大きさ・姿のポプラがふたごのように並んでいた。その2本のうち道路側のポプラ(現在、ポップラとよんでいる)が残される。

1983年10月 基町環境護岸完成

1984年 ポップラの身長15メートル、幹周り1.6メートル
 (太田川河川事務所・保管資料)

1991年  孤独のポップラ
♪台風の強風により中央公園にいた仲間のポプラが倒れ、ポップラがひとりぼっちに。

2003年3月  堂々1本ポップラ
♪「水の都ひろしま」デルタライブで、ポップラが印象的な風景をつくる。

2004年
1月…市民公募によって、通りの愛称が決定、「基町POP'La通り」が誕生
5月…基町環境護岸が「土木学会デザイン賞」特別賞を受賞
   ポップラのシンボルツリーとしての位置付けが定まる
7月…「PICNIC@POP'La」で身長測定、ポップラの身長25.8メートル
9月7日…台風18号の強風によりポップラの倒木
9月10日…官民協働によるポップラ屹立、11メートルに切り詰め植え直す

2005年7月7日  ポップラ大手術~川側の幹を切断
♪身長約11メートル、幹周り約3メートル(往年の姿の半分以下になった)から再生をめざす。

2006年7月  ポップラ・ペアレンツ・クラブ発足
♪管理協定に基づきポップラの再生と河岸緑地の清掃活動を開始。

2007年3月30日  次世代ポップラの選定
♪親ポップラの柵の中で生長していた3本のうち1本のベビーポップラ(ひこばえ)を東寄りに2メートル移動させて後継場所とし、基町POP'La通りを引き継ぐ形が整う。

2008年11月1日  さよならポップラ
♪2008年春、新芽をつけず生きている兆候が見られず伐採、切り株ベンチとなる。
力尽きて、ヤングポップラ(ポップラ2世)へ世代交代。

2011年2月26日  ポップラ2世の一人立ち
♪2008年春から2年4カ月後、切り株ベンチの腐敗が進み、とうとう土にかえる。
「さよなら。ありがとう! ポップラ!」
ヤングポップラの1本立ち、ポップラ2世がポップラストーリーを引き継ぐ。
2011年11月 身長は約11メートル☆

2012年7月  ポップラ2世が病気に
♪ポップラ2世が白紋羽病にかかり、葉枯れと落葉がすすむ。

2013年1月26日  ポップラ2世の伐採
         ~さよならポップラ2世
♪先代ポップラからバトンを渡され風景を作るという仕事を継いだポップラ2世。残念ながら病気(白紋羽病)で枯れたため伐採。高さは約11メートル、幹回り1.1メートルだった。この場所の風景づくりは次世代へ託す。

2014年2月22日  3代目ポップラの植樹
         ~みんなで成長を見守ろう!
♪初代ポップラの下にいた「ひこばえ」が巣立ち、(社福)六方学園で大切に育てられ、大きくなった木の根元に誕生した「ひこばえ」が里帰り。まだ50cmの若木の3代目、みんなで成長を見守り、心地よい水辺を目指す。基町環境護岸の風景づくりを託されている。



ポプラの素顔

ポプラの語源

ポプラの語源はラテン語のPopulus(人民)で、古代ローマ市民が木陰に寄り添い集会を開いたとされる木。 
樹木分類ではPopulus属(ハコヤナギ属)。ポプラの呼び名としてはセイヨウハコヤナギ、イタリアヤマナラシがある。白くて柔らかい材質なのでマッチの軸や箱を作ったことから、ハコヤナギともいわれる。セイヨウの付かないハコヤナギはヤマナラシ(山が鳴る)のこと。ポプラの葉がカサカサと風にそよぐ音を連想しヤマナラシとよばれることもある。

ポプラの身体

葉柄は扁平で葉と直角についており、葉が左右に動く。重なり合った葉っぱがお互いによけ合って、少しでも多くの葉に陽光が当たるように助け合っている。 
この葉がたっくさん集まり、美しいホウキ状の樹形を作る。基町のポップラは特別にカコイイ姿をしており、人気がある。 
ポプラは成長が早く、幼少のころは1年に1メートルも身長を伸ばす。30年もすると壮年期に入り、寿命は50年くらいとされる。

ポプラの仕事

軍施設のポプラ

「ポプラは火薬の材料として有用である」とされたため、軍の施設にポプラが多く植えられたのではないかという見方がある。

苗圃のポプラ

「街に緑を」という合言葉をつくり、緑化の具体的な樹種として2~3年で育つヤナギ、ポプラ、センダン、フサアカシア(ミモザ)を広島市内の苗圃(基町地区・東雲地区・宇品地区)で育てた。 
(資料)元広島市公園緑地課長・講演資料、広島市『広島被爆40年史 都市の復興』1985年

配布されたポプラ

1953~1960年まで、基町の公営住宅地区に毎年約2,000本程度の苗木(苗圃で育成されたもの)を配布していた。ポップラの誕生と関係があると思われる。 
(資料)広島市公園協会資料

目隠しポプラ

1967年ころ、元安川の川沿いのラブホテル前に宇品苗圃で育成した6メートルのポプラが10本ほど植えられた。ネオンを隠すためだった。 
(資料)『水と緑』2000年10月号 
現在、ホテルは存在しない。これらのポプラは台風などで倒れ、2004年に1本だけとなった。

広島市にかつてあったポプラ

広島城周辺の西練兵場と済美国民学校。女学院小学校、旧二中(のちの観音小学校)、広大東雲分校、似島学園など。

広島市に現存するポプラ(2005年3月現在)

牛田・公務員官舎一帯、中国放送北側、元安川左岸(8月6日通り)、旧広大千田町キャンパス、広島観音高校、吉島公園、広島西飛行場から県自動車学校までの県道など。 
広島市のほかに、陸上自衛隊第十三旅団(海田町)や呉市、庄原市など。
昭和の時代は学校の校庭にも植えられ、「校庭のポプラ」はごく普通の風景だった。

絵本風「ポップラストーリー」

これらのお話をまとめた絵本風のパンフレット「ポップラストーリー」(JPG画像125KB)がございます。
このパンフレットは2004年度水辺の市民活動助成事業「POP'Laプロジェクト」として、広島市・水の都ひろしま推進協議会の助成を得て作成しました。



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